カテゴリ:helloharuo tour 2011( 12 )

2011年5月4日(水)

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浜岡原発に着いたのは午前2時半だった。昨日の10時半からこの時間までず〜と運転して来たから疲れがピークだった。それでも頑張って写真撮らなきゃと車を少し離れたところに停めて車内泊をして明るくなるのを待った。今回の和歌山の旅では、車内泊はしないと思っていたのでブランケット等を持ってくる事をしなかった。案の定寒くて2時間ほどで起きてしまった。しかし、撮影のタイミングとしては、ベストですぐ浜岡原発まで車を走らせた。釣り人の車が整頓良く停まっていた。

百聞は一見にしかず。
浜岡原発は、緑に覆われていてその姿の全貌は見えない。見える位置を確認する事は出来なかった。写真は、恐らく浜岡原発だと思う。(後にネットで確認するとそうだった)
何の理由があるか分からないが何故海外沿いに原発を作るんだろうか?

helloharuo tour 2011 spring
東北、愛知、和歌山、浜岡原発 これですべての撮影を終える。
撮影は、出会いと経験の連続。

帰らなきゃ、茶畑庵に帰らなきゃ。
撮影を終えて東へ車を走らせた。和歌山からも高速は使わなかったがさすがに早く帰りたいと思い東名吉田から高速に乗ったが睡魔が襲った。日本平PAで仮眠をした。無理をしている。車内泊をもっと快適にしよう。今後の課題。

やはり2時間ほどで起きてコーヒーで目を覚ましをまた東へ進んだが渋滞に差し掛かった。これはダメだと思い国道一号線にすぐ下りる。しかし、こちらはこちらで大渋滞。う〜ん仕方ない GWだからな。

茶畑庵に着いたのは、12時少し前だった。
昨日の10時半に和歌山を出て24時間以上掛かっての到着だった。

お疲れ様、椿土君。
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2011年5月3日(火)

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朝起きて玄の家族と朝食を食べていると人がやって来た。玄の住む家の元々の持ち主の友人だと言う。どんな人が引っ越して来たかチェックに来たのだ。縁側に座り玄は情報交換をしていた。そうやって直接人と会って人と也を見せて新天地での信頼を築いて行くのだと思った。

10時半に玄の家を出発した。iPhoneのナビがうまく働かずこの道でいいかなと思って車を走らせたがまんまと道を大きく外してしまった。その御陰で紀伊半島の中をグルグル車で旋回するはめになった。その時間は3時間以上も続いた。やっと新宮市に戻って海岸沿いを北上した。尾鷲市を越え渋滞に巻き込まれながらも紀勢道まで来たが渋滞情報を確認してやはり下で行こうと高速道路に乗るのをやめた。R42をひた走った。津市、四日市市を通り名古屋までたどり着いた。R23からR1に合流し安城の近くまで来た。当然実家には寄らない。寄れない。

その代わりに父の墓に寄った。母の誕生日の祝いの報告と旅の無事をお願いした。近くには父の兄である叔父の墓もある。両方にお参りをした。今回の帰省で初めてその叔父が父に送った手紙を母に見せてもらった。その手紙は、次の日に喉頭がんの手術を控えた叔父が父に対し感謝ともしもの事を考えて宜しく頼む、という内容だったが文章がしっかりしていて僕は、感心した。知らなかった叔父の一面を知った。その手紙を書いたのは今の僕の年寄りもか分かった頃の叔父だった。

お参りを済ませて車に戻るとメールが届いていた。
東北に行った帰り何人かの友人に被災地での感想のメールを送った。その内の1人からだったが不愉快な気分にさせられた。

今回の東北行きは、『野次馬』でそんな友達はいらない。
という手厳しい内容だった。自分はボランティアに行った。写真を撮るだけに行った僕を責めていた。僕は、直ぐさま返信をした。
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○○が言いたい事は、よくわかります。僕には僕の役目があると信じて動いています。ボランティアとは、様々な方法があると思うし、その成果が理解されるにも時間がかかる事もあります。野次馬呼ばわり、結構です。僕は君の友人だと思ってメールしました。僕のメールの内容が乏しいかも知れないけれど、僕の友人が僕と同じ事をしたら僕は理解します。例えば音楽奏でればその場で反応を体感出来ると思うが、ボランティアは、それと似ている。写真は、二次的に伝える要素がある。僕の写真は、これからどう人に伝えるかが問われる。それは、行く前に散々考えた事。

はっきりした意見をありがとう!

○○は、○○で頑張ってくれ。
今までありがとう。

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こう突っぱねて返信した。朝から車の運転をし、誰とも話さないでいた僕は、誰かと話したかった。丁度ツイッターに友人が僕をフォローした知らせが来て彼だったら話が出来るかもと思いメールを送ると話が出来た。彼は同じ写真の仲間だ。僕は、彼にこの不愉快なメールを伝えた。行動すれば賛同が生まれるが批判も生まれる。写真仲間の彼からは、冷静に同情された。僕は、同情を求めていた。彼は夜勤の仕事の間に僕の電話につき合ってくれた。ありがとう!救われました。

R1を岡崎、蒲郡、豊橋、浜松と東へ東へと車を走らせた。疲れていてもドライビング・ハイで妙に目が覚めていた。運転しながら不愉快なメールに対して憤慨していた。同時に感謝もした。だから複雑な気分だった。

R1からR150に移り浜岡原子力発電所に向かった。気分も優れないし今回は、止めて次回にして茶畑庵に帰ろうと思ったがここは踏ん張り時だと思った。R150は空いていて車は吸い寄せられる様に浜岡原発にたどり着いた。位置を確認してまずは、寝ようと近くで適当な場所を見付け駐車した。午前2時半だった。

先ほどの友人からまたメールが来た。彼女が送ったメールの内容の補足だった。補足されて僕の感情も少しは和らいだがよくよく考えると彼女のメールの文章の組み立て方に問題を感じた。確かに彼女の文章の最後に『愛を込めて』とあったが僕には、何の効力もなかった。文章の最初に『野次馬』でそんな友達はいらない。と来れば誰だって不愉快だ。余談だが人に何かを伝えるのは『ポポネポ』の法則がいい。ポジティブ+ポジティブ+ネガティブ+ポジティブだ。文章を彼女がどう組み立てたかは知る由もないが『野次馬』呼ばわりしたのは彼女がそう思っているからだろう。彼女を責める気はないが文章の組み立て方で人の感情を逆撫でする事に繋がるから自分も注意したい。

車内泊するために車内の荷物を退かし寝るスペースを作った。玄から手土産にガス炊飯器(写真/玄の家にただあったもの)の鉢植えを貰ったがその鉢が車内にある。

土と緑の匂いを嗅ぎながら横になって眠った。

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2011年5月2日(月)

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玄の友人家族は朝早く京都へ旅立って行った。
玄は、今日地元の新聞の取材を受ける。僕は、もちろん同行した。
取材の場所は、玄の家から車を少し走らせた農園だった。
玄は、インタビュアーの質問に一つ一つ丁寧に答えていった。

どこの出身?職業は?どこから来た?どうして来た?この地(龍神村)をどう思う?
そんな内容だ。僕は、そのインタビューの様子を動画で録った。

夜のなると玄が龍神村で初めて知り合いになった方が子供を連れてやって来た。その彼も龍神村に結婚を機に移り住んで来た人だった。話は淡々としかし深く掘り下げて生き方について語り合った。龍神村に来ないと出会いない人。ここでは多くは紹介しない。玄は、まだ龍神村で模索の日々が続いているからこの日記であれこれ書いて良からぬ迷惑をかける事を避ける。

寝る前に2度目の五右衛門風呂に入る。
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2011年5月1日(日)

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11時半、安城を後に龍神村へと向かった。
母におにぎりを6つ拵えてもらった。母には、東北+和歌山への旅は黙っていた。心配をかけたくなかった。伊勢湾岸道、伊勢道、紀勢道と高速道路を乗り継いで大宮大台で下りた。それからの道のりも険しく長かった。元々の計画を実行したまでだがどうしても東北の後に玄の家を訪ねたかった。

大震災の後3月14日の夜、玄は、友人家族等を連れ総勢10人で茶畑庵に来た。地震と放射能漏れを懸念して西へ避難する途中に寄った。そして玄たちは、三重県の熊野に身を寄せた。その後も連絡を取り合っていてGWには、愛知の実家に行くからその流れで玄を訪ねに行くと約束していた事を実行したのだ。

玄は、熊野から龍神村に移っていた。玄は、プリミティブな生活を実践して来た。1歳と3歳になる女の子も夫婦だけで取り上げた。それは、病院に対する不審からだった。今回の大震災の政府や、メディアにも不信感は募る。僕も玄にまったく同感している。ちゃんと意見を言い、行動を起こしている友人は数少ない。玄は、僕の今後の行き方の模範になる人物なのだ。

高速を下りてからの道のりは、紀伊半島を東から西へと横切る険しいクネクネの山越えだった。途中熊野川の近くの村落を通ったが景色、立地条件はとても美しかった。東京というコスモポリタンに住む事は、決してマジョリティではなく世界的に見たらマイノリティなんだと常々思う。人間の本当の暮らしは、自然と共にあるのだ。東京暮らしを25年間して静岡に引っ越したのは、2年半前。僕は、緩やかだが自然派生活を人生に取り入れようと模索している。そういう意味で玄は僕より"先に"進んでいる。

7時に玄の住む家に着いた。丁度夕食時で一緒に食べれた。iPhoneのナビは正確に僕をここへ誘導した。玄の友人家族がすでに訪れていた。夫婦+小学5年生の男児。奥さんは、スタイリストをしていて仕事も僕と同じ業界だった。そかも住んでいるところも僕が東京に住んでいた富ヶ谷の近くで共通の話題を楽しんだ。シンクロしているのだろう。

玄の住む家は。山に囲まれ大きな川が流れ吊り橋を渡った2世帯しかない集落だった。正しく絵に描いた様な田舎の家がそこに存在していた。家の中は広く部屋も多かったが問題点もあった。床を支える土台?支柱?が湿気で腐っていて修復をしなければならない様だ。

寝る前にこの家にある五右衛門風呂を頂いた。玄が薪で湯を沸かしてくれた。お湯となる水は、山から引いた山水。水質が円やかでとても暖まった。温泉みたいだ。

これが玄の求めた場所で、生活なんだ。
僕は、この場所をこの身で体感して人生のダイレクションをクリアにしたいと願う。
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2011年4月30日(土)

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朝食は、母が穫った土筆を食べた。随分穫ったと聞いたが僕が実家に住んでいる時もよく近くの川の土手に行って土筆を穫ったものだ。炒めて醤油で味付けをして卵とじにする。土筆は蔕を取るのが一苦労する。

東北の旅の事は、母には話していないが兄には話した。特に兄からそれについての意見は出なかった。関心がないのだから仕方ない。でも関心があって欲しいと思う。関心の在り方は本当に人様々だ。1.000年に一度の大きな津波だったんだよ。その兄とランチ前に車のワイパーを買いに行った。東北の旅の時、何度か雨に遭遇したがワイパーの拭き残りが視界の妨げになった。交換時期なのだ。
いつも実家に帰ると兄は、僕の買い物につき合ってくれる。それが欲しいのならどこどこに行ってみよう、なければ次を探してみよう!と動いてくれる。

ランチは、僕のリクエストでカレーライスになった。母の作ったカレーを食べたのは何十年ぶりだろうか、何の変哲もない普通のカレーだが嬉しく頂いた。

午後になり僕ら家族は、車で30分ほどの距離にある園芸センターに行った。兄と相談して母へのプレゼントは。何か樹を買おうということになっていたからだ。その園芸センターは、巨大な売り場面積を持ち、春の苗を求めるお客で超賑わっていた。僕らは、何か樹はないかと探した。母がピンと来る樹があればそれにしようと。

母は、"どうだんつつじ"に目が留りこれがいいと言った。鉢に入った1.000円少しの金額だった。質素倹約を実践する母らしいチョイスだった。"どうだんつつじ"なる樹の存在は僕は知らなかった。母は"どうだんつつじ"と亡くなった僧侶の祖父とのエピソードを話してくれた。

実は僕は、東北の旅で疲れていた。睡眠も不規則で調子が狂っていた。眠気がやって来たので買い物が終わるとそそくさと家に戻った。何故だか母は知る由もない。家に着くと僕は、記念撮影をした。家の敷地内、玄関の近くに"どうだんつつじ"を植える予定だがまだ鉢のままでよいだろうということになり一先ず玄関前に鉢を落ち着かせた。

少し横になっていたがお寺にも行かなきゃと思い、祖父が建立した感示院に向かった。実家から感示院へは、距離にして600mくらいの位置にある。おくりさんである伯母さんを訪ねた。静岡土産の安倍川餅を手土産に。伯母さんは元気で僕も暖かく迎えてくれた。いつもいつも暖かく迎えてくれる。おくりおさんである伯母さんのご主人、僕にとっては叔父だがその叔父が感示院二代目のお上人に当たるがそのお上人は3年ほど前に亡くなり感示院は、主無き寺が続いている。しかし、やっと来月から新しいお上人が寺にやって来る。その上人が約3ヶ月の100日苦行をしているレポートを日蓮宗の新聞で紹介されていると叔母がその新聞を見せてくれた。僕より1歳年上のまだ見ぬその彼の姿は勇ましく伸ばした髭から苦行の様子が伺われた。この方といつか会う事を楽しみにしている。

また家に戻り母と会話しているともう次の予定が近づいて来た。6時過ぎにその予定はやって来た。それは、従姉妹夫婦とのお食事だ。従姉妹、従兄弟は数あれどお付き合いをしているのは同い年のこの従姉妹のみ。とても関係を大事にしている。セルビアに行く前に会った時以来の再会だった。最近始めたツイッターとfacebookでも繋がり毎日の様にやり取りをしている。従姉妹は、マラソンに励んでいてとても健康そのものだ。ご主人の支えもあり元気そのもの。彼らのお勧めする中国人経営の中華料理店に行った。安くてボリュームがあった。東北の写真を少し見せる。愛知に住む人々は、大震災の影響が直接的にないために僕らとは温度差がある。食事は、従姉妹夫婦が奢ってくれた。前回会った時も奢ってくれた。従姉妹は、6月に山中湖近くの忍野で走るというのでそれに赴いて写真を撮ろうと思う。それが僕の出来るお返しだと思うので。いつもありがとう!

9時過ぎには、帰宅した。
またソファに横になりだらだらとして寛いだ。
兄も横でイビキをかいて寝ている。
母も自分の部屋にいた。

東北、母の喜寿、そして明日は和歌山へ。
helloharuo tour 2011 spring 中盤に差し掛かった。
まだまだこれから行くぞ〜!
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2011年4月29日(金)

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疲れも取れないまま、午後1時半、茶畑庵を後に愛知県の実家に向かった。今日は、母の誕生日だ。R1を西へと進んだがGWも始まり道は混んでいた。6時の夕食には似合う様にと本当は、12時に出発する予定だったが電話で話したりしていて1時間半遅れた。もう何度も経験して分かっている事だが僕の車は古い軽自動車。高速を乗るよりは下で行くのが合っていて、しかも適度に信号で止まるので睡魔もあまり襲わない。実際安城に着いたのは、9時を過ぎていた。

道中母と連絡を取り合っていて母と兄は僕が到着するのもお腹をすかして今か今かと待っていた。当初母の手料理でいいいう事だったが兄が外食を望んだ。9時過ぎで食事出来るところは、焼き肉屋か回転寿司くらいだ。母の希望で回転寿司に行って食事をした。ささやかながら母の喜寿のお祝いをした。いつもは、母が代金を払ってくれるがこの時ばかりは僕と兄が会計をした。

家に買えると母から手紙の入った封筒を渡された。母のプレゼントの希望は、やはり子供からの手紙だったが僕は、忙しくて間に合わせていなかった。母の茶封筒には、喜寿を迎えての母の気持ちと子に対する労い、そしてお金が1万円入っていた。僕は、近く必ず手紙を書きます。すみません。子は子でお母さん、僕は、東北に行っていて本当に忙しくしてて手紙を書く暇がなかったと甘えているがそれは自分の段取りに誤りがあることは明白だ。ごめんなさい。

東北に行った事は伝えないにしても今回の大惨事で多くの人がその犠牲になった事について家族で話した。もちろんお悔やみの気持ちで話は進んだが温度差は大きいと実感する。しかし戦争を体験した母は、その辛さを自分の脳裏で想像していたと思う。東北での津波の爪痕は、正しく戦後の焼け野原と同様な光景だった。(僕の言うその戦後の焼け野原は、写真や映画で知っているくらいのものだ)

この母の喜寿を祝う日記に使った被災地に日の丸の写真を見て母はどう思うのか?
母は、僕の日記は見ていない。日記の話題になった事はない。

お母さん、誕生日おめでとうございます。
いつまでもお元気で。
息子は、息子の道を歩んでいます。
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2011年4月28日(木)

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延々R4を東北から下って来た。もう限界だという頃僕は、足立区辺りにいた。何時に入ったか覚えていない。男性用のDVD鑑賞の店を見付け入った。女性は嫌悪するかもしれないが僕も男だししかもスケベだからAVは見る。といっても疲れでAVを楽しむどころではなかった。5時間2000円で個室が得られるのは貴重だ。駐車場もタダ。買っておいた日本酒を少し飲んだら即効眠りに入った。

7時半にiPhoneのアラームが鳴り、出発の時が来た。実は、東北に行っている間に歯の詰め物が外れた。いつもお世話になっている歯医者にこのタイミングで行かないと諸々問題が生じると思い歯医者のある三鷹台まで車を走らせた。東京の運転は怖い。我先にと車が忙しない。R4から環七に曲がり、環八へと進んで歯医者に着いたのが9時。診療時間スタートは10時。僕は、近くのファミレスで朝食を取りながらその時間を待った。10時少し前に歯医者に電話し懇願して治療をしてもらう事になった。残念ながら院長先生はいなかったがサブの方に治療をしてもらう。レントゲンを撮り歯の異常は幸いなくまた歯に詰め物を戻した。

それから環八、用賀でR246に車を走らせた。東北から下で来たのだからこうなったら意地でも下で茶畑庵まで帰る事にした。これも経験なのだ。

ペンションの友人の奥さんとメールのやり取りをしていた。ナデシコの弔いをしなければならない。
車に乗りながらナデシコの事を想った。静岡に引っ越した時点でナデシコとはある意味お別れをしている。そしてナデシコは、ペンションの友人の家族の仲間入りをした。事情があり今年はまだ一度もペンションに行っていなかった。という事はナデシコとも会っていなかったのだ。ナデシコの様子は、ペンションの友人の奥さんが随時知らせtくれていた。2年半の間にナデシコは、すっかり山の猫と化し晩年を謳歌したと思う。そうでなければ最後まで部屋猫で終わっていた。

やっと御殿場に着いてR23を進んだが実は道を間違えていた。ペンションよりも遥かに高い標高1000m以上まで上るはめになった。どうしたもんだろうか?予定よりも1時間半くらい遅れてペンションに着いた。

ペンションには、奥さんしかいなかった。ナデシコが埋葬された墓に行った。ペンションでナデシコの前に飼っていた猫の隣にその墓はあった。手を合わせて別れを惜しんだ。瞼が少し濡れた。

ナデシコの事は、また改めて日記に書こうと思う。

ペンションを後に茶畑庵に向かった。後もう少し、後もう少しで茶畑庵に着く。凄まじい東北からよくも無事で帰って来れたものだ。帰る途中、ガソリンスタンドで愛車アーティを洗車した。泥だらけだった。長旅を成功させた自信は今後の活動に繋がる。夕方の茶畑庵は、穏やかだった。特に異常もなく車の荷物を寝屋に入れて、車内を清掃した。そしてお風呂を湧かしゆったりと安堵の気分で湯に浸かった。

そして久しぶりに自分の布団に入り眠りに入った。

何時か忘れたが一度起きて撮って来た東北の写真をパソコンにDLした。約1600枚写真を撮った。いくつかの写真を見たがこの写真をどう扱うか?写っている被写体はどう僕をこれから動かすんだろうか?疲れが酷かったが頑張って更新出来ていない日記に写真を1枚ずつULした。

まだ旅の途中、次は、母の誕生日&和歌山だ。

ナデシコ。
ナデシコ。

迷惑をかけずに亡くなったナデシコ。
ナデシコらしい死に方だった。
14年間ありがとうございました。
安らかにお眠り下さい。
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2011年4月27日(水)

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後日、日記更新します。
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2011年4月26日(火)

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後日、日記更新します。
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2011年4月25日(月)

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後日、日記更新します。
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