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Thursday 17 April 2014

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午前中のAppleに注文していたブックが2冊届いた。1冊は叔母の作品集、そしてもうひとつは真観自身の作品となる「Portraits of Serbia」だ。全100ページ。ボリュームのある作品になった。「Portraits of Serbia」とは真観が2009年に開催した写真展のタイトル。その年、真観は中央ヨーロッパ、セルビアに2度訪れた。それを紹介したのが「Portraits of Serbia」だ。あれから5年の歳月が過ぎた。「Portraits of Serbia」は写真展で表現したもので写真集制作は当時からアイディアになかったが今回思い立ち制作をしてみたのだ。ページの構成は、写真展会場のレイアウトに沿う様に展開する。そして各々の写真のキャプションページがあり、次に写真展会場の様子を撮影した写真も含めた。そう展覧会の「図録」的要素もあるからこそページが100ページにもなった訳だ。(AppleのiPhotoブックサービスは100ページがリミットなのでどちらにしても打ち止めだった。)

叔母の作品集は先ずは叔母に見せる必要があるので郵便局で送る手続きをした。仕上がりは上々だが叔母の見せないとなんとも言えない。真観は、叔母が今回出来上がった作品集を見て何か問題があれば修正してもう一度制作する考えだ。その可能性は十分にあるしその方が叔母も喜ぶと思う。

さてさてこのAppleのiPhotoブックサービス、真観は気に入っていて今後も他のテーマでブックを制作しようと企んでいる。例えは、感示院、Mash、香織ちゃん、NUDE・・・。う〜ん沢山ある。

真観は、これらすべてのブックが完成してもうやることがないくらい制作が進めばどんなに嬉しいかと思うのである。
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禅寺に行く。昨夜は、2時に寝て今朝4時15分に起きての参禅だった。午後になってから昼寝をし、夜は、9時前に就寝。従姉妹Kちゃんからネットコミュニケーションについて相談があったので僕の考えを伝えた。「インスタグラムは、面白いよね。フィルターいっぱいあるし最近動画も出来る様になった。僕のIDは、helloharuo です。検索してみて。約四ヶ月ネットコミュニケーション休んだけど今は、再開してる。僕のメインは、Facebookで再開した時は、まず全ての友達を「非表示」にしてから自分の記事をUPして、反応があった人だけ「表示」にしたんだ。それからその友達と"相互間"でいいね!とコメントのやり取り出来る人をまた更に確認してダメな人は、また「非表示」にしてる。で非表示したけどまた反応して来たらまた表示という様に誰が自分のことを気にかけてくれてるか厳選してる。めんどくさいけどそれでストレスは、なくなった。要は、ネットコミュニケーションだろうと日々心を通わせたいんだよね。Facebookは、それが出来るからいい。相手にこちらの設定が分からないしね。Twitterは、返信やリツイートがあるけど基本は、呟きたいことを呟けばいいよね。既に繋がってしまっているけどつぶやきを見たくない人は、フォローを止めればいいんだけど相手に分かってしまうからキープピースを考えると難しい。でもね、僕が考えてるのはメリットとデメリットなんだよね。デメリットの方が上回ると精神的に良くないよね。自分を守るためには、時には"鉄のハート"が必要だとね。インスタグラムは、承認制にしてて知らない人とか嫌な人とは、スルーしてる。その人がいい情報出したりいい写真UPしてて気になるかもしれないけど情報や写真は、巷に溢れてるから。だから例えば、僕とKちゃんがインスタグラムで繋がってKちゃんが何か写真をUPする。僕の考えは、その写真がいいから「いいね!」とかコメントするんじゃなくて、あ〜Kちゃん今日も元気そうだなとか楽しんでるなとかが重要で反応するんだ。今日もKチャんを意識したってことが嬉しく思う様にしてる。恋愛と一緒で相思相愛じゃないとネットコミュニケーションは、しない。僕は、誰のファンでもないしね。一方通行は、さみしい。僅かでも相思相愛の友達とネットコミュニケーションして日々に潤いがあればと思っているよ。」と。ネットコミュニケーションは、使い方を間違えると鬱になりかねない。ウェブサイトに新しいアルバムをUPした。2009年にセルビアに行った時のものだ。「The Congress Dances/会議は踊る、されど進まず」1931年の映画タイトルを引用した。この映画中学の時に社会科の先生から教わって印象が深い映画。アルバムを見るには、写真をクリック。 
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やっと今日2009年9月24日を書く時がやって来た。(それまではイメージだけアップしていた。)

"まとめ Portraits of Serbia"

中々書く事が出来なかったのは帰国後の自分のペースを取り戻す事に時間がかかった事と負の感情が強かったため。今回の旅はジョンに振り回された形になった。

JOHN=COMMANDER(コマンダー)だった。

まるでボーイスカウト(B.S)の訓練の様だった。(彼はB.Sの経験があり、僕はない。)予定や行動はことごとくジョンの都合で変更された。それは予期せぬ事態に対しての訓練とも言える。単独行動も考えたが気付いた頃にはもうすっかりジョンの世界にハマって抜け出せずにいた。

滞在中の半ばにジョンに抗議した。マニュピュレート/manipulate、巧みに操つられた感があった。
ジョンの方が一枚上手だ。それでも意見は通った。人を1人では生きられないが人を頼りにしても期待出来ない、その事を身にしみて痛感じた。問題は自分にあった。

ジョンは出会った19年前からから服は基本単色で最近は茶色か黒しか着ない。僕は、ジョンの影響なのかもしれないが白しか着なくなった。僕には僕の"リセット"の意味もある。滞在したセルビアの首都ベオグラードの言葉の意味は『白い町』という。僕はシンクロニシティーだと思っている。

滞在中はまるで遊園地のアトラクションを全部次から次へと体験させられた様だった。ある時は酒を飲まされた後にFUJIYAMAにドドンパを乗り悪酔いしゲロゲロ吐きもした。道ばたで倒れ動けなかった。それを仕掛けたのはジョンで介抱も指揮官のジョンがした。あめと鞭だった。やっと回復してゆっくりしようと思っていたらまた新たな任務を与えられた。それはまた次のアトラクションなのだった。

反面教師、人の振り見て我が振り直せ。ジョンは素晴らしい人よりも優れているパートを沢山持っているが完璧な人間などいない、ジョンのマイナス面からもかなりの事を学んだ。学ぶ事は苛立と不自由さが伴う、これは仕方ないだろう、それに時間が経てば良い思い出に変わる。

セルビアの夏は素晴らしかった。日差しは強いが湿気は無い。シエスタ(午後の時間、昼寝)、地中海気候の影響が強いバルカン半島は農業に適している。僕は夏の白い光が昔から好きだ。セルビアの冬もいいが夏もいい。セルビアのトマトとパプリカは立派だった。実が締まっていた。日本では手に入らない。そっくりそのままセルビアの女性に置き換えられる。

セルビア女性
本当に本当に粒ぞろいでどこに行っても美女!美女!美女!だった。ブランドの服を着なくても中身、スタイルが素晴らしいから簡素な服で十分素敵に見える。ゴージャス!"出るところ出ている"大人の女性だった。"出会い"もあるにはあった。でも好みでじゃなかった。美女であっても好みじゃないと恋愛のきっかけにはならない。僕は終始シャイだった。シャイは売り物にはならないとは僕の言葉だ。だから僕は売れなかった。英語は意外と通じなかった。僕がセルビア語を話すのも大事だがセルビアで日本語を学んでいる女性と出会うのもいい。

セルビアの酒『ラキア』にヤラれた。一度死んだ。『ラキア』は要注意!

第二次世界大戦は終わっていない。ジョンは自称『Strong Hard-Line Serbian Nationalist』と自らをそう説明した。そんな彼と一緒にいると政治の話が日常になる。ジョンはセルビアを愛し、セルビア人は愛国心が高い。ジョンは父親が戦後カナダに亡命したセルビア人、母親はカナダで出会ったドイツ人。ジョンはカナダで生まれたセルビア系カナダ人。愛国心が強くなり1年前にセルビアに移住した人。結婚したのもセルビア人女性。その彼のフィルターを通してセルビアを体験した日本人の僕。

ベオグラードのセンターにある踏切の遮断機が壊れていた。道には行き先の標識がなかった。この国はお金がないと聞く。でも大してお金が必要もなさそうなのに改善しないのは何故なのか?疑問が残る。不思議だ。

セルビア男性は気さくな人が多かった。好感が持てた。身体が大きく、立派だった。それに比べ自分の身体には貧弱だった。。ヌーディストビーチに初めて行った。自分のあそこも貧弱さ(笑)を感じた。でも気にしない様にした。オープン・マインドを体感した。

4,000枚の写真を撮った。
36人のポートレイト&インタビューをした。
150のショート・ムービーを撮った。

使用機材
カメラ
CANON 5DMARKⅡ(個人所有)
CANON 5DMARKⅡ(フリーでレンタル出来た)
レンズ
24-105/F4
16-35/F2.8
70-200/F2.8
50/1.4
35/F2
15/F2.8
85/1.8(ジョン所有)

ストロボは持って行ったがまったく使わなかった。
パソコン Macintosh MACBOOK2007
320GBの外付けハードディスクがいっぱいになった。

遺失物 CFカード   16GB(ジョン所有)、8GB(個人所有)きっと見つかると信じる。撮った写真を失う事は無かった。不幸中の幸いだ。


KOCOBO/KOSOVOに行けたのは良かった。次はいつ行けるのだろうか?もう行けないかもしれない。何事も一期一会だ。セルビア人と一緒に行ったからアルバニア人はまったく極悪非道人種扱いだった。僕にはジャッジ出来ない。ジョンと日本で19年前に出会った。今年3月、初めてセルビアを訪れコソボ紛争10周年記念協議会に撮影で参加した。10年前のコソボ紛争の時僕は何をしていたのか思い出した。そしてジョンは僕を遠路はるばるコソボまで連れて行き、日本に戻ってからセルビアを日本に紹介する写真展を開こうとしている。

セルビアにいる間に、日本はノリピー事件で大騒ぎ、そして日本は政権が変わった。

Q:セルビアに住みたいか?
A:YES
Q:その手段はあるのか?
A:YES、今後調査を進める。



ジョンへ

ありがとう!
感謝しています。
身体を大切にして下さい。
勉強になりました。
まだまだ旅(写真展)は続きます。
これらもよろしくお願います。

セルビアの哀愁、ジョンへ、セルビアへのセンチメンタルな気持ちが僕の原動力だった。


はるお

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僕の性格的には、普通の人なら、出発の前日は帰国のパッキングをして準備万端にして備えるもの。そうしたいとジョンに伝えたのにすっかりスルーされパーティーに繰り出してしまったからオフィスに戻ったのは朝方の何時だったっけ?多分7〜8時。それで目覚ましもセットせずに爆睡してしまった。

奇跡的にジョンは先に起きて起こされる。12時のフライトと思っていたが13時だった事は判明しホッとする。それでもパッキングに時間がかかりタイトな時間に緊張と不安を感じる。

昨夜のパーティーに行った際、そのパーティー会場の近くに車を駐車していて帰りはタクシーで帰ったからオフィスを出てまたタクシーに乗って車をゲット。その駐車したエリアはジョンの家族が住む家に近いと言う事でジョンの奥さんのベスナにSAY GOOD BYEを言いに行った。ジョンはフライトの時間には間に合うという。それなら行こうと。ベスナとBOYSに会えたのはよかった。

ポートレイト&インタビューのデータは翻訳作業をジョンに任しているのでフライト前に彼にデータを渡し彼が自分のハードディスクにダウンロードする段取りだった。その作業はパーティーの前に完了予定だったが結局ジョンは後回しにした。その御陰でオフィスを出てニコラ・テスラ空港に行く間、データのダウンロードを僕がするはめになった。データのダウンロードが完了しないと厄介な事になる。車の中で何度も『メンドクサイ』とジョンに言った。実際メンドクサイ!最後の最後までジョンに振り回される。

ニコラ・テスラ空港はベオグラードの中心から近く20分くらい。これは助かる。空港も混んでいない。普通ならフライトの2時間前に行くところだが1時間を切ったあたりで空港に到着した。税関に入るギリギリまでデータのダウンロードは続いた。

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ジョンに別れの挨拶をして税関を通過。ジョンとの距離は次第に遠くなって行く。そのジョンに手を何度も振り別れを惜しむ。色々あったが感謝している。

ベオグラードからモスクワへ3時間。
1時間半トランジットで待ってモスクワから成田へ10時間。
この行程にはストレスがないから嬉しい。

成田には定刻で日曜日の朝10時すぎに到着。

早速、沼津行きのバスの時間を確認したが3時間くらい待たないと無理なので諦めて新宿までリムジンバス。バスの乗る前に5階のレストラン街でラーメンを食べた。それはそれはホッとしました。
1時間少しでバスは新宿に着き、いつもの小田急箱根高速バスに乗り換えて御殿場駅まで。いつもならここから車で帰れば良いが今回は長旅だったから電車に移動しなければならない。御殿場駅から裾野駅まで30分。静岡に引っ越してから成田⇄静岡間はかなりしんどい。裾野駅からは徒歩で帰りたいところだが荷物が多いのでタクシーで帰る。

茶畑庵は留守中何事もなかった様だ。

落ち着いた。
無事に帰れて何より。

〆のブログは後日に。


昨日は時差ぼけを抱えながら学校に行ってなんとか終了。
写真展のプロデュースを引き受けてくれている難波さんに学校の後早速お会いし写真を見せる。
自分のリズムを取り戻し前に進む。頑張る。

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この写真はニコラ・ステラ空港に行く途中に遭遇。どうも結婚式のカップルが乗っていた様だ。
セルビアの国旗から見送りを頂いた。
ありがとう!
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朝からポートレイト&インタビューのアポイントをジョンが取っていた。海外版mixiのfacebookでジョンの友人にメールを送った。これだけの人にメールを送ったとわざわざプリントアウトしてくれた。

ありがとうございます。

セルビア滞在最後の日だ。もうこうなってくると一体誰と出会い、誰が撮れるかはジョンに任せた。午後から動く事になった。まずはジョンのBOYSたちのケアをしなければならなかった。奥さんのベスナが用事があるからだった。ミュージック・スクールに連れて行く必要があった。BOYSたちとも今日で当分お別れだと思うと寂しかった。ミュージック・スクールに行っている間、ある人物に会いに行ったが約束の時間を大幅に遅れているのでその人物は後回しになった。仕方ないので共産時代の名残のあるレストランでランチを食べた。ビーフシチューを食べたが美味しかった。ミュージック・スクールは1時間だったし、入りも遅れたからレストランにいる間にBOYたちをジョンは迎えに行き合流した。3月にも会ったニコラという青年がポートレイト&インタビューに参加してくれるというので彼の経営するレストランまで行った。そして彼とお店の従業員の青年を撮った。

ポートレイト&インタビューのデータ量はそれなりになっていた。帰国する前にジョンにデータを渡す必要があったがジョンのコンピューターにダウンロードする空き容量が足りなかった。ではとパソコン・ショップに行って外付けハードディスク(250GB)を"裸"で購入した。ジョンがケースを持っているというので中身だけにしたのだ。6.500円くらいだったから安かった。

その後は今回何度も会っていたジョージの家に初めて行った。ジョージもジョンと同じでブルジョアの末裔だ。先祖からの家を取り戻していた。ベオグラードの中心街の十字路に建つビルにジョージの家はあった。立派な造りだった。そこにはゾキというジョージの友達もいたので2人撮らせてもらった。途中ネマニャからも連絡があり合流したいとの事でオフィスで会う事になった。12時頃戻ると伝えた。まだネマニャもポートレイト&インタビューをしていない。ジョンもね。BOYSたちもするはずだったが流れた。ベオグラードを走り回った。僕と取材のやり方が全然違う。僕だったら前の日にアポを取り完璧にスケジュール通り動くだろう。(アクシデントはないという前提のもと)それは誰を?何を?明確にしたいからだ。しかしジョンのやり方を見てるとその場その場でタイミングが合う人を撮ればいいという感じだ。それはそれで面白いがやり方が違う。違うにも理由がある。

まあ、いい。誰が撮れるかはジョンに任せたんだからな。時間はいい時間の夜になっている川向こうのニューベオグラードに行ってターニャというモデルの女の子の家に行った。この女の子とはジョンは先週ボートのパーティーで出会った様だ。奇麗な女の子だった。ゴージャスだった。僕の好みではないが。そんな事はいい、ポートレイト&インタビューだ。
次に同じエリアに住む、ボシュコを訪ねた。ボシュコは例のカラオケパーティーに誘ってくれたジョンの古くからの友人。ぼくはこの人は好きだ。ボシュコもまだポートレイト&インタビューをしていなかったので帰る前に撮れて良かった。

この時点でポートレイト&インタビューの人数は今までに36人を撮影していた。
多いか少ないか分からないがこれが結果だ。

オフィスに戻るとネマニャが来てくれたので少し一緒に寛ぐ。ジョンは画家で今日個展を開いた女性がいる、今夜は家でパーティーをしているのでそこに行けば何人かポートレイト&インタビューが出来ると言った。時間は12時を回っている。ポートレイト&インタビューが出来るのはいいが僕は明日(今日)日本に帰国するのだ。まだ荷物のパッキングが全く始まっていない。それにデータのダウンロードには時間がかかる。ジョンはその画家のパーティーの後、そのままパーティーに出掛けるというのでちょっと待った!と阻止した。それじゃあ、僕のパッキングとデータのダウンロードはいつするんだ?僕は嫌だよ、朝帰ってからバタバタするのは!そうジョンに言うと分かった、画家のポートレイト&インタビューが終わったら一度オフィスに戻ってそれからパーティーに行こう。

そういう事になった。やれやれ。

ジョンとネマニャと3人で車に乗り画家の住む家まで行った。奇麗な女性だった。早速ポートレイト&インタビューを撮った。他に誰かやってくれる人がいるかと思ったら誰もやろうとはしなかった。部屋には5〜6人いた。ここでビールをみんな飲み始めた。時間的にも1時を過ぎている。いつの間にかオフィス行きはジョンの中でスルーしていた。

これが運の尽きだった。

で、次のパーティーはどこに行ったんだっけ?あ〜そうそう歩いて行ける距離にある別な人のホームパーティーに行ったんだ。そこも興味深かった。面白い場所だったし、黒猫がいた。ナデシコを思い出した。この時点ではここでもポートレイト&インタビューが出来るはずだった。でも誰も出来なかった。ジョンは働きかけもしなかった。ポートレイト&インタビューは酒の場では難しい。しかも深夜だ。このパーティーの後はまたサヴァ側沿いのボートハウスのパーティーに行く事になった。タクシーで行ったんだと思う。このブログ日本に帰ってから思い出して書いているがこの辺の記憶がない。写真もあまり撮っていなかった。

ボートからセルビア正教大聖堂が見える。今回よく見た美しい光景だ。

空は明るくなっていた。
何時だか覚えてないがもうオフィスに帰らないとヤバいと思い、ジョンとネマニャとで歩いてオフィスまで帰った。そして僕はベッドに横になると寝てしまった。

僕のパッキングはいつするんだ〜〜〜?

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念願のコソボでポートレイト&インタビュー。

まずはこれを見てくれると嬉しい。
コソボ紛争

昨日の夜の情報で今日の朝にアルバニア人側とセルビア人側とで衝突があるという。それはセルビア人居住区にアルバニア人たちが家を建てようとしているらしくそれをセルビア人側が断固阻止をしようとするものだった。僕らはそれを取材しようと考えていた。しかしテレビでもそれを放映していたが幸い大した事にならなかった。それはそれでよかった。

ホテルの部屋でデューレをポートレート&インタビューする事にした。僕の体調は良くもなく悪くもなく。彼を撮影出来たのは本当に良かった。最前線で頑張っている人だからだ。

コソヴスカ・ニットロヴィッツァの町を歩く。コソボは基本的には田舎の町だ。市場があった。何でも売っていたが大したものはなかった。危険な緊張感は感じられなかった。遠くの高台に新しく出来たという教会見えた。その横に共産時代のモニュメントも建っていた。デザインがかなりの違いを見せた。共産時代に来ていたならまた雰囲気も違ったのだろうと思った。町のいたる所に痛切なメッセージが見えた。

9時、デューレの知り合いで裁判官の女性がいるというので訪ねてみる事になった。昔はコソボ南部に住んでいたという。程よく町を歩くと彼女の家があった。入り口で靴を脱いだ。この地方は日本と同じ様に家の中では靴を脱ぐ習慣があるらしい。旦那さんとお子さんがいるそうで後から戻って来るという。コソボ紛争の資料を沢山見せてもらう。その資料には無惨なしたい写真がいっぱいあった。

彼女はミレナと言った。ミレナもポートレート&インタビューをさせてもらった。しばらくするとお嬢ちゃんのマルティーナが帰って来た。空手を習っているという。テレビ番組の『ニンジャ・ウォリアーズ』を見ているという。それは『サスケ』だった。マルティーナにもポートレート&インタビューをした。このポートレート&インタビューだが日本人だと中々思う様にしゃべれないだろうな思う。我々は主張をするという教育を受けていない。ここはコソボだ、自分の意見をしっかり持っていないと生きては行けないだろう。子供の意見が聞けたのはよかった。その後旦那さんも帰って来たが旦那さんはポートレート&インタビューはしなかった。

近くにポートレート&インタビューが出来る家族がいるというので紹介してもらう事にした。歩くには遠いので車で行こうという事になった。NO.1ホテルの近くに車を停めてあったので戻ろうと歩いているとたまたまFMステーション『RTV KISS』の社長さんと道で出くわした。ジョンの素晴らしいところは誰とでも話せる社交性だ。社長さんもポートレート&インタビューを承諾してくれたので早速近くにあったFM局を訪れた。社長さんは松葉杖で足を支えていたがただ単にFM局の階段から落ちたらしい。このFM局はコソボ側には許可を得ていないらしい。セルビア人側の為にぶっちぎりでやっている。社員の女性も近くにポートレート&インタビューが出来たのでこの時点ですでに5人撮影が出来ていた。

確か2日前ジョンはオフィスのキッチンでこのプロジェクト(ポートレート&インタビュー)にやっとやる気が出て来た、面白くなって来た。』と言い僕の頬にキスをした。僕はえ〜今頃なの!?とびっくりして落胆もした。

デューレとミレナをホテルで待たせていた。始めは10分で終わると伝えて待っててもらったが1時間はかかった。申し訳ない。やっと合流して車に乗ってある家族の住む家まで行った。長男が交通事故で入院しているらしくいなかったが旦那さん、奥さん、次男、長女がいて5人家族だった。この家族もやはりコソボから離れず生活をしているのだ。仕事がなく国からわずか250€を毎月貰い他からの援助を合わせてなんとか家族で生活しているらしい。深刻な問題だ。奥さん、長女、次男とポートレート&インタビューをした。ポートレート&インタビューはセルビア語か英語だが僕はすべて理解は出来ない。帰国後翻訳を誰かに頼んだ後やっとインタビューの全貌が分かると事になっている。僕はただただ撮影をし人の内面の"気配"を感じるのみしかない。

ミレナは僕らの企画に賛同してくれて今度はロマのキャンプに友人がいるから行こうと誘ってくれた。また車で移動した。

米軍の基地予定地の横を車は走る。これがかなり"くせ者"だ。

丘の上に車が差し掛かった時にコソボの町を見下ろす事が出来る場所があった。車から降りてもよしと言う事で降りて写真を撮った。近くには戦車と兵士がいた。ジョンはあまり長く立っていない方が良い、遠くから発砲される恐れがあるという。その可能性は敏感に感じた。


ロマのキャンプに着いた。ロマはいわゆるジプシーの事だ。日本ではジプシーは放送禁止用語らしい。コソボに住むロマたちもコソボ紛争の折にこの地に逃げて来た。始めは山の中に住んでいたがその山にはある金属が穫れるそうだがそれが人間の健康には良くない。ロマたちの歯はその影響で黒く変色してしまったという。なぜ裁判官のミレナがロマの人たちと交流があるかというとロマの家族の生まれたばかりの赤ちゃんのゴッド・マザーになっているからだという。ロマの殆どは紛争時、命からがら逃げて来たのでIDも何も失っていた。そうなると国から何の保護も受けられない。その辺の経緯からゴッド・マザーの役目が必要なのだろう。

そのロマたちに提供したのは運搬用のコンテナーだった。ロマのキャンプにはコンテナーがいっぱい並んでいた。そのコンテナーに住む家族を紹介してもらった。カメラをぶら下げているから無闇矢鱈に写真を撮らない様にと言われた。ごもっともだ。子供にもカメラを向けて写真を撮ったりすればお金をせびられる。僕は注意した。コンテナーの中に入る時、やはり靴を脱いだ。12畳くらいの部屋に家族みんな住んでいるという。天気はよかった、コンテナーの中は暑かった。この家族のお母さんにポートレート&インタビューをする事が出来た。家族写真も撮る事が出来た。後でその写真を差し上げる事にする。貴重な写真が撮れた。残念ながらここでは飲み物は頂かなかった。それは暗黙の了解だった。食事をして行きなさいと誘われたがそれも止めた。

このキャンプは『オストロッデキャンプ』と言った。

このキャンプでミレナと別れて僕とジョンとデューレで次なる目的地グラチャニッツァに向かった。グラチャニッツァはコソボの南部にある。なのでアルバニア人が住むコソボの町を通り抜けないと行けない。デューレのナビがあったから複雑な道順も難なく進む事が出来た。コソボに来る前はコソボの3つ地域を訪れるはずだったが予定は変わりグラチャニッツァに行く事でコソボの見聞録は終了する。グラチャニッツァに行く途中、コソボの首都プリシュティナを通る。グラチャニッツァには築700年にもなる教会があった。長い歴史の中で何度も何度も壊されたがその度に修復している。門番には国連軍のスイス兵が建っていた。塀の上には有刺鉄線がグルグル巻いてあった。教会に有刺鉄線とは世界中探してもそう沢山はないだろう。

デューレは僕らと一緒にコソボまで来たが彼はこの町、グラチャニッツァで用事があった。一度別れて後で合流しようと言う事になった。僕とジョンは遅いランチを食べにバーに入った。ジョンは前にも来た事があるそのバーは夜ともなれば沢山若者が集まるという。昼間のバーはカフェになっていて僕らはピザとビールを頼んだ。ここでパソコンの電源の充電をしたりしてその時間軽く仮眠も取った。体調はまあまあ、時々咳が出た。

外に出ると車が2台通り過ぎた。その車はアルバニアの国旗を掲げて走って行った。要するにここコソボのセルビア人居住区にアルバニア人たちがいわゆる嫌がらせをしにやって来てるのだ。威圧とも感じられる。彼らにとってはセルビア人よ、早くコソボから出て行け!って事だからだ。

ここで書いておくが僕はこの深刻な問題をジャッジする気はまだない。セルビア人側からすべてを見ているのでジャッジのしようがない。今後もっとはっきりとした考えが纏まる事を期待するが今は何とも言えない。コソボに住むアルバニア人すべても悪者扱いにも出来ない。話は複雑すぎる。それをジャッジするにはまだまだ勉強不足だ。でもこのコソボで約25万人のセルビア人たちが土地を奪われたのは間違いはない。そして紛争後大量のアルバニア人たちがフリーの居住を手に入れた。

宗教の違いも大きくアルバニア人は殆どがイスラム教、セルビア人はセルビア正教で教会の形も大きく違う。町にはジャーミーが増えて来ている。天辺の特徴が全然違う。

僕は限られた時間でこの地、コソボに来ている。教会の写真を撮る事にした。教会の敷地内に入ると黒い服を着た修道女たちがいた。外観は撮れるが教会の中は撮影禁止だ。教会の中では修道女たちが十字架に祈りを捧げていた。外には老婆が物乞いを求めて来た。それは結構しつこかったがお金はあげなかった。ジョンは物乞いにお金はあげない主義だ。僕はそれに習った。
教会の敷地内も散歩した。時刻は6時を過ぎていた。裏の建物で修道女たちが夕食を食べているのが音で分かった。更に奥に行くとスウェーデン軍の兵隊たちがいた。ジョンはまた『前に来た時に話した事あるけど覚えてる?』そう1人の兵隊に尋ねた。その兵隊も覚えていた。会話は特に続く訳でもなく挨拶をしたという感じだった。

ジョンは自分の事をこう言う。

Strong Hard-Line Serbian Nationalist

セルビア人の血を受け継ぐこのカナダ人はセルビアに移住してこの国を守ろうとしている。

グラチャニッツァの町を出る前にアコーディオン奏者の家を訪れた。ジョンがある日、そのアコーディオン奏者の父親にたまたま出会った事が交流のきっかけらしい。アコーディオンを奏でるのはその息子さんでコソボ地域のコンクールで見事優勝しているという。電話をすると今から言っていいという事になった。家に着くと番犬が2匹走り回り吠えていた。これもセキュリティーだと言う。中に入るとお祖父さん、お父さん、お母さん、アコーディオン奏者の息子さん、それに娘さんがいた。ジョンはポートレート&インタビューな何故か避けた。その代わりにアコーディオンの演奏をしてもらい写真とムービーを撮った。撮ったムービーをYOU TUBEにアップしたら知らせるからメロアドを教えて下さいというと、パソコンがないと言われた。この家族もアルバニア人側に仕事を奪われた。わずかな援助で暮らしている。ただ部屋の中は質素かもしれないが奇麗にしてあった。見た目は貧しいという印象はなかった。ラキアを勧められた。僕はもうラキアは懲り懲りなのでアルコールの弱い別の手作り酒を貰った。なんだろ、あれもプラムかな。他にはコーヒーやコーラがテーブルに並んだ。来客を持て成すのはどの国も同じだ。80歳過ぎのお祖父さんがいた。冗談で奥さんを捜していると言った。交換条件で僕にセルビアの女の子、お祖父さんに日本の女の子を紹介するってはどうだ?と家族で話して笑った。このお祖父さんは耳が遠かったが80歳過ぎともなれば歴史の生き証人だな。この地、コソボで彼が見て来た事、是非とも伺いたいものだ。1時間ほどでこの家族の家を後にした。帰り際、庭で穫れるグレープ、プラム、西洋なし、トマトを土産に貰った。どれもしっかり実がついて力強く感じられる果物だった。

ヂューレと合流するはずだったが出来なくなり自力で国境まで行かなければならなくなった。南からセルビア方面の北へ車を走らせた。ジョンは途中、途中、車を停めてはアルバニア人たちに英語で道を尋ねた。セルビア語は使わなかった。そしてなんとか国境のボーダーに着いた。

このボーダーはセルビアからコソボ来る際に一番近いボーダーでここを通過するのか通常なのだが一つ前のブログに書いた様にこのボーダーを通過するには保険代(100€)を払う事になるから避けたのだ。税関で検問を受けて説明するのに時間がかかったが今後気を付ける様にと言われてなんとかなった。そしてこのボーダーで足止めを食らっている時、反対側でバスが停まっていた。セルビアに買い物に行って帰って来たセルビア人を乗せたバスだと思われる。バスの運転手が何やら奇妙な行為をしている。それはナンバープレートを交換しているのだ。セルビアのナンバーだとコソボの町で下手すると石を投げられて危険らしい。だから偽のコソボのナンバーに取り替えるってわけらしい。これも切実な問題だ。

昨日来る時はニシュに寄ってデューレに会ったり、山越えして随分時間がかかったが帰りは一直線でベオグラードへ。ジョンはここぞとばかりに愛車VOLVO S70を走らせスピードを上げた。140キロ平均だった。日頃から寝たくないのかわからないがカフェインをよく摂る。ガラナの入ったエナジードリンクやコカコーラ、コーヒーとかだ。運転中も何度もコカコーラの缶を空けた。僕は助手席で音楽担当だ。幸い、ジョンの好きなトランスをiPhoneに入れてあったのでその曲カーステに繋いでをかけた
。ジョンはアストラル・プロジェクションや、MIKO等のメロディアスな曲を好む。ボーズのスピーカーから爆音が流れる。街灯もない、ガードレールもない、ガイドラインもないハイウェイをひた走る。

えらい勢いだった。アウトバーンとはこういうものかと思った。車の量も少ないからスピードは落ちない。ベオグラードにはたった3時間で着いた。これには僕は驚いた。あ〜無事で良かった。ジョンさん、お疲れ様です。


ジョンはベオグラードに着いた後もどこかパーティーに行きたがっていた。今夜は木曜日だ、どこかでパーティーは必ずやっている。どうしてそんなにパーティーに行きたがるのか?わからない。はい、僕も好きです!パーティー!!!でも今夜はパスね。まだ体調は本調子ではない。僕はまた電気を点けたままベッドで寝た。ジョンも出掛けなかったようだ。

濃〜い、コソボの旅が終わった。
ジョンに感謝、どうもありがとう!










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本当に行けるかどうか?半信半疑だった。ジョンの日々の動きを考えると行けないかもしれない。でも何度も念を押し行くと言っていたのであまり急かさずこの日を待った。

南へ移動-----そうコソボに行くのだ。

朝、コソボ行く事になった。お昼の12時には出発だというのでそのつもりで準備を進めた。僕は時間を正確に守ったが言い出しっぺのジョンが2時間遅れた。なので出発は14時だった。さてジョンの自慢のVOLVO S70で出発をした。すぐハイウェイに入る。ハイウェイに料金は存在している。フリーではない。僕らはまずセルビア第二の都市、ニシュに向かう。

ハイウェイが分岐に差し掛かった。ニシュがどっちの道なのか分からない。セルビアの道路標識は超曖昧で標識がない場合が多い。ジョンはセルビアに移住して1年。まだまだ道には詳しくない。早速道を間違えた。当然車の中でジョンが文句を言う。確かに、道路標識くらい大してお金が掛からないのだから設置すれば良いのにと思う。(もしかして多大なお金が掛かるのか???)全く不思議だ。

道を間違えた分、ニシュ行きの時間は遅れた。セルビアのハイウェイはドイツのアウトバーンに習って作られたらしい。最高速度が何キロかわからないがジョンは飛ばした。高速になれば車の揺れが気になるところだがジョンの自慢のVOLVO S70はびくともしない。

ジョンの自慢は続く。
このVOLVOはベルギーで製造されてカナダに来て僕が中古で買った。アメリカに住んだ時も一緒だった。そして船でドイツまで運びドイツからセルビアまでドライブして来た。あともう少しで距離計は25万キロだ。そらあ、世界を走り回ってるわと僕も関心。車内の居住空間が広い、BOSEのスピーカーが標準装備、頑丈なボディetc.....。どうも大学教授だったお父さんがVOLVOを乗っていたらしいのでジョンも自ずと好きになって行ったんだろう。実は僕もVOLVOが好きだ。僕は240GLが好きだ。形が何とも素晴らしい。というわけでそうだね、そうだね、そうだねと助手席でジョンに頷く。

ハイウェイは道の状態が悪く、時折穴ぼこがあいてたりする。ガードレールもなければガイドライン敷いていない。もちろん街灯もない。これがハイウェイなのか??とびっくりする。

3時間くらいでニシュに着いた。ベオグラードとなにが違うのか?そんなには分からない。駐車したロータリーには戦車が展示してあった。なんかの記念なのかな?これも日本じゃありえないな。
少しすると今日のキーパーソン、デューレがやって来た。

デューレはカナダディアンセルビアンだ。NATOの空爆があった1999年以降カナダからセルビアにやって来た。祖国セルビアの為に何か出来ないか?デューレは弁護士だ。今はコソボでアルバニア人に略奪されたセルビア人の土地を奪え返す運動をしている。マジな話しだ。デューレは勇気のある人だ。頭がいいというのは素晴らしいね。だからコソボ行きをジョンがデューレに投げかけると彼も行く事になったのだ。ポートレイト&インタビューもしたい。

3人でコソボへとまた車を走り出した。デューレは10年間何度も通っている訳なので道も行く知っていた。国境のボーダーの通過の仕方も熟知していた。通常だと保険代(車なのか?人命なのか?よくわからない)を払わなければならない。ニシュから最短の国境だとその保険代100€が必要になるがデューレはその保険代を払わなくてもいいボーダーを知っていた。その為には軽い山越えが必要だった。ではそうしよう。無駄なお金は払いたくない。3人ともそう思っていた。

山越えの前に小さな村に立ち寄って道を尋ねた時だった。デューレがタイヤを見たら前輪の右のタイヤがパンクしていた。あらら。ジョンはハッチバックから電動のポンプを出して空気を入れた。取りあえず空気が入って走れる事になったけれどこの先危ないのでパンクを修理しなければならなくなった。幸いにも自動車修理の店が見つかってパンクを直してもらった。その修理代は約300円だった。この物価の違いはなんだ。御陰さまで旅をまた進められる。時間は夕方になり次第に空は暗くなっていた。山越えをしていると今度はなんだか焦げた匂いが車内に入って来た。ボンネットから煙が出ているじゃないか!また車を停めて確認してみると原因はエンジンではなくディスク・ブレーキ・パッドの様だ。最近新調したばかりで町中を走っている時も異音がしていた。山越えで頻繁にブレーキを踏む事でそのブレーキ・パッドの表面が焦げたのだ。これは逆に言えばディスクにレーキ・パッドが馴染むという結果になった。しばらくすると焦げ臭い匂いはなくなりまた車を走らせた。

11時頃コソボのセルビア人居住区、コソヴスカ・ニットロヴィッツァに着いた。この町は川でコソボのアルバニア人居住区とセルビア人居住区で別れている。夜に着いたのであたりの雰囲気はよくわからない。食事をしようという事になりNO.1ホテルというホテルのレストランに入った。

実は僕はここ終日のスケジュールで少々風邪気味だった。咳が出ていて軽く頭痛もしていた。
レストランに入ると僕らのテーブルから離れたテーブルに人がいた。どうもこの地区の要人らしい。デューレが知っていた。ジョンが挨拶に行くと言い始めた。デューレが止めとけと言ったがジョンは挨拶だけだからとそのテーブルに向かって彼らに話しかけた。ジョンはジョンで色々活動をしているので彼らに自分の事をひも解けば分かってもらえると思っていた。しかしあまり良い反応はもらえなかった。CIAのスパイとかに疑われた。そんなやり取りを見ていると僕にも緊張が走る。一段落して食事を始めた。ジョンはセルビア料理を僕に勧めたがメニューにパスタがありカルボナーラがあったので僕はイタリアンにした。テーブルに来たカルボナーラはカルボナーラだったが二人前くらいある量だった。パスタはふやけていた。全部食べきれなかった。

さてコソボに来る前からジョンは車中で寝ると言っていた。僕もそのつもりだったが意外と気温は寒く体調を気にした。デューレは知り合いのところに泊まるという。そこに便乗して泊まる事も考えたがまた車を走らせなければならないのとデューレ自身も疲れているという事で食事をしたNO.1ホテルに泊まる事になった。ツインで30€だった。食事の後、ジョンはもう一度さっきのテーブルに行って自分のPRを兼ねて話しに行った。その時間は30分近くあってコニュニケーションを始まってよかったが疲れているデューレと僕は待たされた。ジョンは戻って来ても悪かったとは言わなかった。一事が万事ジョンの都合で時間が過ぎて行く。僕はただただ待つのみだった。

待つのみ。旅の間ず〜とそうだった。

ジョンはバーにでも行って朝まで飲む気でいた。僕らを誘ったが断った。一刻も早く寝たかった。デューレのポートレイト&インタビューもやろうと言われた。さすがにしたくない。僕もデューレも部屋に入ったら即効ベッドに横になった。ジョンは車で寝ると言っていたが結局はバーにも行かずホテル部屋のツインのベッドの真ん中のフロアーに寝た。エクストラ・チャージは払わなくても良さそうだ。

なんてこの人は元気な人なんだろう。
でも彼も疲れているはずだ。
車の運転もしている。
気持ちだけは元気だった。

僕はただただ早く寝て体調を取り戻したかった。窓の外ではバーの音楽が大きな音で聞こえる。デューレも僕も部屋の電気を消す事すらも放棄して寝た。寝付きは悪かった。

ストレスが結構溜まっていた。

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ここ数日のBLOGを書くのに時間が掛かった。

ランチを食べに最近見付けた中華のファスト・フードに行った。
多分、この人日本人だなぁと思われる青年がいた。セルビアで日本人に会うのは極めて稀だ。ここの中華もやはり炒飯に肉野菜炒めを乗っけてカートンボックスに入れるという美意識のないメニューだ。味も今ひとつだしパッケージも味気ない。それでもご飯、嬉しい。

意外と街のスナップを撮ってなかった気がする。何をやっていたんだろうか、とも。食後の散歩をしながらスナップを撮る。シエスタのいい空気に太陽が溢れている。デパートも見た事はない。ブランドの店もあるがそんなに派手な展開はしていない。スターバックス・コーヒーとかのアメリカチェーン店もない。あるのはマクドナルドのみ。(新しいショッピングセンターにはKFCはある。)まだお土産らしきものは殆ど買っていない。買い物は最後の日かな。

あっという間に時間が過ぎている。
夜、ネマニャがまたオフィス来た。
街で一番古い建物を紹介したいと言われ散歩に行く。その場所は行ってみたら前にも来ていた。それは多分3月に来た時に偶然知った。基本的にはヨーロッパの町並みのベオグラード、日本と違い長く建っている建物は多い。ネマニャはそのまままた僕を夜の散歩のナビをした。矛先はリバーサイドに向かった。街灯が連なりとっても奇麗。確かに昼間は修復した方は良いなと思われる箇所は町の至るところに見られるが夜はそれを闇で隠し別物の美しい顔を見せる。ネマニャは観光案内してくれる。リバーサイドを歩いて2つ目だったかの橋の下を通った。ドイツ製なのかドイツの技術に習って造ったのか分からないがその橋の説明を受けた。見るからにがっちりしっかりした橋で古そうだが永久に壊れないような頑丈な橋に見えた。

ここ数日、ネマニャは僕と過ごす事で2つの事を楽しんだ。
一つはカメラで撮影する事、もう一つは街に出て人と話す事だ。ネマニャは僕のカメラを時々使って写真を撮った。ネマニャはいう、僕は写真は上手い!確かに的確に写真を撮る。しかし僕のカメラなので使い方をマスターするには時間がかかる。特に夜の撮影はフォーカスが合い辛いので難しいしコツがいる。歩いていると働いている人たちがいた。ネマニャはいう、『あのトラックは戦前からあるかも知れない、壊れないんだよ。』僕もそうだがネマニャも古いものが好きらしい。特に車は古い方がデザインも個性があっていい。僕は写真を撮り、ネマニャはその働いてる人たちに話しかけた。この国は他人同士が気軽に話せる。日本もかつてはそうだったはずだ。

この夜の散歩は長かった。3時間くらいかな。そのおかげで行っていないベオグラードの写真が撮れた。時折、ネマニャはジョンの代わりを務めているのだ。一人では話しかけないだろうと言う人達の写真を撮れたのは良かった。ネマニャ、ありがとう!

帰り際、『サンドイッチ・キング』という訳の分からないネーミングのサンドイッチ屋に入り巨大なサンドイッチを食べた。観光案内のお礼に僕がおごった。深夜だし随分デカかったがよく食べれたな、と自分でも関心。お腹が空いていたかもね。

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日本からサンダルとこのKISSのシューズを持って来て履いている。僕はかなり気に入っていてウケると思っていたのに誰も反応しないのがチト寂しい。足下で見えてないのか?それともアメリカンだからかなぁ???

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夕方まで寝ていた。どうやっても起きれなかった。随分ひどかった様だ。二日酔いは続く。ラキアにやられた。丸一日潰れてしまった。まあ、これも思い出となる事でしょう。昨夜はジョンとネマニャが僕を介抱してくれた様だ。バスタブの中で何度も吐いて苦しんだ、お湯を頭から掛けてもらっていた事はうっすら覚えている。

二日酔いにはみそ汁だ、と思い立ちジョンを夕食に誘った。その前に用事があるというで待っていた。だが一向に帰って来なく戻って来るともう食べたと言う。ネマニャはジョンが帰る少し前に来たのでネマニャを誘った。彼はモーター・バイクで僕を寿司が食べれるバーに連れて行ってくれた。3月に来た時にその寿司バーに初めて行った。でも今回はまだ行っていなかった。日本食はこの寿司バーしかありつけない。寿司はオシャレな食べ物として扱われいる。トレンディーな人が集まるビルの中に寿司バーはある。前回はビルの中に入って寿司バーがあったが今日はテラスで食べようとネマニャが言うのでそうした。僕は中に入りたかったが従ってみた。

そのテラスは寿司バーではなく一般のレストランだったが寿司のメニューもあった。まずは二日酔いの薬としてみそ汁を頼んだ。コーラを飲みながら待っているとパンと一緒にみそ汁が来た。インスタントとは言わないがまあそんなに味を期待しても仕方ない。感謝して頂く。次に頼んだ"握り"の盛り合わせを食べた。シャリはべちゃべちゃしていた。もう一度みそ汁を追加した。出来れば3杯くらい飲みたかった。テラスにいる人たちは僕が日本人で寿司を食べてるところを興味深くそれとなしに見ている。僕はそれだけでも珍しい光景と思うが更にその出されたメニューが来る度に写真を撮っているのだからまた日本人は写真が好きだな〜、思われる事だろう。

時間的にも10時くらいになっていて御陰さまで二日酔いも収まって来た気がした。飲酒はもちろん避けた。

オフィスに戻って来ると突然、ジョンにポートレイト&インタビューをすると言われる。急に言わないでほしいよ。こちらにも準備が必要だ。すでにオフィスに何人かいた。

みそ汁の御陰なのか体調は復活した兆しを感じた。よし、やろう!
4人ほど撮影が出来た。

時間は2時近くなって、オフィスに来たみんなパーティーに出掛けた。誰かがタクシーを呼んだ。ジョンはそのタクシーを30分近く待たせた。僕の生活は東京から離れ、渋谷から離れ、深夜のお遊びは殆どなくなっている。パーティーは好きだが今日とかはある意味病み上がりだ。少々応えるが行くしかない。そこには出会いが待っている。そして行ってみるとZEPTERビルだった。ハウス・パーティーだったが常時パーティーをやってる感じだった。

ZEPTERビルは高層マンションだ。いつ建てられたのか分からないがエレベーターの作りの感じだと60年代??かもしれない。外観がお台場のフジテレビに少し似ている!?。パーティーには20人近くの人がいたと思う。DJブースがあった。踊ったり酒を飲んだりしている。僕には部屋のすべては興味深かった。窓の外の夜景も素晴らしい。この時点で僕は酒を飲み始めた。だけどピーボ(ビール)のみにした。ビールならコントロールし易い。

ジョンは相変わらず、人々と交流をしている、説明的な話が上手い彼は人の耳を引き寄せる。そして感心させるのだ。僕はビールを飲み始めたものの昨日の今日なので大人しくしていた。アーチストのジョージが自分を撮ってくれというので軽くフォト・セッションをした。部屋全体が暗いのでバスルームで撮った。逆に彼も僕を僕のカメラで撮った。

途中、ビールが無くなったという事で飲みたい人からお金を集めて買い出しに行った。僕も誘われたので一緒に行った。日本のコンビニの様には行かないが深夜営業している店はあちこちにある。程よい距離にお店があった。深夜で危険なのか店の扉は閉めてあって会計の窓口だけ開いてあってレジの前におじさんが座り欲しい商品を注文するとおじさんが窓口に持って来てくれる。僕らはビールを3ダースも注文したのでさすがに店の扉を開けて受け渡しをした。

パーティーに戻ると待ってましたとばかりにビールが方々に散らばりなくなって行った。パーティー再スタートの様になって元気を取り戻したかのいい雰囲気になったがそれが裏目になった。

おっお〜〜〜、2人の警官がやって来ましたよ〜。恐らく騒音苦情でしょう。困りましたね〜。警官は部屋の仲間で入ってきました。一通り注意をされて終わったので安心しましたが1人の警官が僕の顔を見るなり????なんて感じで見ていたので誰かが日本人ですと答えましたとさ。

これを機にパーティーが終わり僕らは外に出た。もちろん朝方。この場所はニュー・ベオグラード。僕らのオフィスは川向こう。バスを使って帰る。

そのバスのチケットは買わなくてもなんとか騙し騙し乗れる。共産時代の名残らしい。チケット代を払わない人は払わない。車内にお金を払うシステムがない。チケットは前もってキオスク等で買って乗車するらしい。もし車掌が車内を廻って来てチケットを持っていないと分かると罰金を要求されるそうだがその車掌がいないからただで乗れるという訳だ。


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---3本指を立てるのはセルビア人の証---
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昨夜出掛けずに寝ていたので体調は取り戻したと思う。そして今日は朝からヴォイヴォディナ自治州にあるジョンの家系の家に行く事になった。行く前はその家の近くにある市場に行って20人くらいの農民のインタビューが出来ると言っていた。でも結果はまったく出来なかった。こっちはそのつもりで準備するのにその場その場で状況が変わり事柄もがすり替わる。しかしその代わり他の写真が撮れる。その繰り返しだ。

高速道路を北に進む。ヴォイヴォディナ自治州の州都はノヴィ・サドというところだがジョンの家は別の町でスレムスカ・ミトロヴィツァと言う町だった。ジョンの家系の家と言うのはジョンのお母さん方の家系になる。第二次世界大戦前は立派なブルジョアジーだった。それが戦後共産党が全部資産を奪った。こういった歴史がこの国にはあるのだ。そしてジョンの家は残っているが1階はテナントのお店が入っている。だがその1階の不動産の権利は共産党がマフィアに売ってしまい、またそれを誰かが売ってしまい誰が権利を持っているか複雑になっているらしい。ジョンは2階の部屋はもう取り戻しているので中に入れてもらったがジョンの説明のに寄るとかなりのブルジョアジーだった様で部屋の所々にその繁栄さが伺える。隣の家にはジョンの遠い親戚が住んでいて紹介された。ここでもポートレイト&インタビューを行った。

ジョンの自慢のVOLVOと自慢の自転車キャリアで4台分の自転車も運んで行きていた。そうそう一緒に行ったのはジョンとジョンのBOYSとネマニャだ。ジョンの家のすぐ近くにはサヴァ川が流れている。このサヴァ川を境に国境が会ったりした時期があるので川を挟んで家の造りや文化が全然違うと言う。僕らは川沿いをサイクリングした。こういったアイディアはジョンならではだから出来る事でその点はリスペクトしている。まあ、色々とジョンの事を書いてはいるが一緒にセルビアを楽しんではいる。この近くのサヴァ川はボートレースに適している様だ。川幅が広く流れが穏やかだ。昔はここで人々はボートレース観戦を楽しんだ様で川のほとりに観戦用にベンチがあるのが見えた。

この時点であ〜ジョンが言っていた市場に行ってポートレイト&インタビューを20人なんてのは夢の夢だなと諦めた。時間的に夕方になっていて市場はとっくに終わっているだろう。さあ、ジョン、次はどこに行くんだ?SPAに行く。昨日イバナたちが行きたがっていたSPAか。いいよ、じゃあ行きましょう。ジョンはそのSPAには行った事がある。BOYSたちも楽しみにしていた。僕も行ってみたい。車を進めてSPAに着くとなんだろうな、古い感じのSPAだった。SPAとはもちろん温泉の事だが日本の温泉とは違う。受付にに300ディナール(500円くらい)払い水着に着替えてSPAに入ってみるとそこは温水プールだった。温度は人工的には上げていない。ここの温泉はまあ温い。施設も1950年代変わっていない様な感じで古めかしかった。汚いとも言えるかも。リニューアルするにもお金がないんだよ。

SPAを出て近く売店でBOYSたちはチャパッピ(ケバブ)を食べた。ハルオはどうするって聞かれたのでベオグラードに戻ってからでもレストランで食べれるかな?と尋ねると出来るというので食べるのは止した。(でもその考えは無惨にも打ち砕かれ実際食べる事が出来たのは次の日の夜9時だった。)

ベオグラードに帰る途中、ボシュコから電話があった。この前会った時にボシュコが言っていた様に今夜ボシュコがカラオケのデリバリーサービスをするプライベートパーティーでポートレイト&インタビューが出来る事になった。普通の人はこうやって約束は守るよね。ありがとう!ボシュコ。ベオグラードに着くとジョンとBOYSたちと別れた。ジョンはBOYSたちを寝かさなければならないからだ。BOYSたちは今夜はオフィスで寝る。ネマニャをインタビュアーになってもらう事にして2人、車を降りてパーティー会場に入った。会場と言っても要するに人の家だ。中に入ると誰かの誕生日パーティーで集まっていてそこにボシュコのカラオケサービスって事だ。カラオケはまだまだこの国には浸透していない様でカラオケのスクリーンもイメージだけで動かず日本の25年くらい前のシステムだった。日本ってのは結構沢山の文化を生んでるなとまた関心する。

まずはリビングでカラオケを楽しんで歌っている女の子たちを撮りその後、キッチンを借りてポートレイト&インタビューをした。こんな状況で仕事が進むのは不思議なものだ。日本じゃ考えられない。ここで4人を撮影した。

さてそして『ラキア』だった。今回の旅で何度かラキアを飲む機会があった。プラムから造られる蒸留酒でアルコール度が高い酒だ。各家庭でも造るというから日本でいうならば梅酒か。このパーティーにいた男たちが突然現れた謎の東洋人と飲みたがった。そしてラキアを振る舞ってくれたのだった。僕は真摯にそのラキアを受け止め飲んだ。丁度テキーラショットの様にショットグラスで飲み干す。日本の事をあれやこれや尋ねられた。セルビアの男たちは体が大きい。怖いとかはないが取り囲まれた。そして何杯かラキアを飲んだ。

記憶がなくなった。

気がつくとオフィスにいてネマニャとジョンにバスタブの中で介抱されていた。ラキアで頭がグルグルになった僕はネマニャが抱えてくれてタクシーに乗りオフィス近くで降りて道端で吐いた。夕食を食べていなかったから余計にアルコールが体の中に回った様だ。地べたに寝転んで動けずゲロを吐きまくったらしい。そのうち警察官がやって来てその後の行方が心配されたがネマニャが付いていてくれたので警察行きは逃れた。ホントにホントに死ぬかと思った。兎に角記憶がプツンと途切れている。そして2人の介抱の御陰で何とかベッドに横になった後は吐く事はなかった。

そしてやっとベッドから立ち上がったのは次の日の夕方6時だった。

もうむちゃくちゃなスケジュールだ。
でも大丈夫!復活した。

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